小林 源文 本名(こばやし もとふみ)
1951年1月28日福島生まれ 小学校低学年より東京の下町で育つ。
最終学歴:川崎市立工業高校。
18〜35まで弱電関係と冷凍ユニットの整備員、転職一回。
35よりフリーとなる。
夢と希望とチャンス ガキの頃からイタズラ描きはしていた。
まとまった物など描いたことはなかった。
中学生の頃から読書には目覚めた。川崎駅前の古本屋にはよく通った。
映画は小学生の頃から、ロードショーも三番館にも見にいってた。
きっとこれが現在の商売のベースだと思う。
現在も映画はヒマがあると見るようにしているが、最近は忙しいため資料関係以外に読書してないのが悩みだ。
今から40年前の少年誌は月刊誌の時代だった。
その後、インスタントラーメンの登場と共に少年誌は月刊誌から週刊誌の時代に移った。
当時の少年誌は小松崎茂、高荷義之、中西立太など何十名もの絵描きの先生方がいたが、週刊誌の時代で淘汰が始まりプラモデルのボックスアートや図鑑などがイラストの世界となった。
私は十代の頃は漫画家になりたくて、 スタジオ・ゼロやさいとうプロを友人と覗いたりしていた。
高校生の時にイラストレーターに憧れて、中西先生の門を叩いた。
弟子にはなれなかったが、この出会いが私の運命を替えた。
20になってからサラリーマンを続けながら、デッサン・スケッチなどの絵の勉強を始めた。
24のときに「壮烈!ドイツ機甲軍団」を中西先生と共著した。
次はガッケンの「X戦車図鑑」。
モノクロはいいとして、カラーの絵を三回書き直しをさせられ初めて画力のなさを実感し、
仕事も来ないしプロを目指すのを断念した。
二年後、27才の時に上田信氏からホビージャパンのピンチヒッターで劇画の連載を頼まれた。
明後日が締め切りだった。その仕事が「ハリコフ攻防戦」で4ページ二回の連載であったがチャンスなので、締め切りはきちっとこなした。
ホビージャパン誌ではパンツァーフォー、装甲擲弾兵、黒騎士物語、zbv等を連載した。
30代始めに黒騎士が別冊扱いで出版されたが、印税が5%なので安すぎてこれがホビージャパンをやめる切っ掛けになった。
日本出版社から連載の話があり、またホビージャパンのライバル誌MGの連載も始まっていた。
35のクリスマスの夜に自損事故で会社をやめる事が出来て、フリーになりアパート一室が仕事場になった。ファックスやワープロを買って仕事が順調に進みだしそれから10年以上が過ぎ、ワープロはパソコンやコピー機に変わり、一つの出版社の付き合いも10年単位くらいで現在に至ってる。
住まいも今度は逆に横浜から川崎、そして東京都下に住んでいる。
年齢も50になるし、最近は何才まで仕事が出来るかがチョット心配になっている。
老化が最大の敵なんだ。
視力と集中力が加齢と共に減衰するんだ。
これは遺憾ともしがたい問題になってるんだ。
それから最近、非常に危惧してる問題がある。
先に書いたイラストレーターの件なのだが、才能のある絵描きさんが誰も育ってない事なんだ。
車は描けるが人間が描けない、飛行機は描けるが風景が描けない、という半端な自称イラストレーターばかりになっているのが出版界の現状なのです。
このホームページの本当の狙いは、一人でも本物の絵描きさんを育てたいという希望で始めたものです。
誰一人育てていないのは出版界の責任なんです。
バルバロッサ作戦発動58年目の1999年6月22日 小林源文